この委員会は上記のグリーン・ドラフトの大型プロジェクトの一つで、これが日本レンゲの会発足の基礎になりました。この委員会の活動は、レンゲの種子を農地に播いて、美しいレンゲのお花畑を作ろうとするもので、レンゲ草作戦と呼ばれました。
かつて、日本の田園の風物詩であったレンゲ田をよみがえらせ、豊かな台地を取り戻そうとする運動であり、1981年に静岡県富士市と神奈川県平塚市の水田にレンゲを播いたのがこの運動の始まりです。10月25日に東京から貸切りバスを仕立てて、約60人の若者が、両地区合わせて4.62haの稲刈りが終わったばかりの水田に、186kgのレンゲ種子を播きました。
しかし、この第1回のレンゲ草作戦は見事に失敗し、花は咲かなかったようです。その原因は播種時期が遅かったことに加えて、稲刈り後に播種し、覆土をしなかったための発芽・定着の不良によるものと思われます。田中事務局長(当時は早稲田大学法学部4年生)が言っているように、やる気のみが先走りがちの素人集団であり、レンゲについての十分な知識がなかったための失敗でした。
このグリーン・ドラフトのレンゲ作戦が1982年4月7日の日本農業新聞に「水田裏作にレンゲを─東京の若者が作戦行動─作戦協力を農家に要請」の見出しで紹介されました。この記事を見た養本社(岐阜県の古くからのレンゲ種子販売業者)土屋卯平社長がグリーン・ドラフトに手紙を出し、日本のレンゲ研究の第一人者岐阜大学の安江多輔先生との共著『岐阜県の花レンゲとその栽培史』とレンゲ種子200kgの寄付を申し出され、このことがきっかけになって、田中事務局長が安江先生にレンゲの播種時期や方法などを質問し、また研究室へ訪問するなどして、グリーン・ドラフトとレンゲの研究者や種子実際使用者との繋がりに広がりました。
1982年秋の第2年目のレンゲ草作戦は稲の立毛中に摘期播種し、翌春4月には見事に開花しました。このレンゲ草作戦は新幹線の沿線をベルト状にレンゲの花で彩ろうの遠大な計画でした。富士市須津地区が選ばれたのは、新幹線の車窓から富士山を背景にしたレンゲ畑の美しさを楽しみ、レンゲを見直してもらうことによって全国への波及を狙ってのことでした。
レンゲ作戦がひとまず成功し、強力な協力者を得たグリーン・ドラフトは新事務局長・長田研一の主導で、土壌改良委員会を日本レンゲの会に発展させえるための運動を展開しました。そして1983年12月28日に日本レンゲの会設立会議にこぎつけました。
この設立会議は東京都港区六本木の国際文化会館で開催され、次の5議案が審議されました。
@規約に関する件
A役員に関する件
B会費に関する件
C組織の拡大に関する件
Dその他の件
当日の出席者は、
長田 研一(グリーン・ドラフト事務局長)
玉井袈裟男(信州大学教養学部教授)
村山 元英(千葉大学人文学部教授)
木村 久吉(金沢大学薬学部助教授)
安江 多輔(岐阜大学農学部教授)
土屋 正保(土屋卯平養本社社長の代理)
佐藤 芳博(衆議院議員井上一成の代理)
五味 豊二(共同興発会長)
の8人でした。なお、白川勝彦(衆議院議員・新潟県)は当日欠席。
日本レンゲの会設立総会は1984年5月20日に長野県南安曇野郡穂高町で開催され、記念講演会およびアルプス山麓レンゲ村開村式その他の多彩なイベントが開催されました。